僕だけがいない街 感想(後半)
とりあえず仲間意識は感情が伴うものに限定して話を進めるね。
兄弟愛と仲間意識についてから考えてみた、この二つ似ている面もあるが出自は全然ちゃうんや。
兄弟愛は俺が思うに二つの出自がある、生物の根本の同一性(色々あるよね、代表はDNAだろう)ゆえに人間全般(生物全般)に生まれるものと、この世の全てのものと自分は関わりあっており(直接的でないものも含めば理論的に考えられることは理解できる)その為自分という存在は自分の脳がつくりだしている己という意識ではなく、その関係性の中に埋め込まれたものであるという考えから自分と他人が同一であると思うことによって生まれるもの。どちらかというとどちらも主知的結論だ。
それに対して仲間意識は埋め込まれた一種の運命とかに関係する内発的なもので、うーん難しいけどとにかく自分の人生における特別な環境が生み出すもの。理論、理性外の主位的なものに近い。
この二つははっきり分けることが出来ない、両輪であり陰陽てきなもの、お互いがあって初めて存在する、いや正確にはするべき。
仲間意識は特殊なもので制限が必ず伴っている、だが兄弟愛と関わることでそれは大きな広がりを持ち、普遍性を持つ。兄弟愛は理論のみから出てくるので実質が伴わず空虚になりがち、だが仲間意識がベースにあればそこに本質をみることができる。
ここで初めて正義という言葉を使える、両者があって初めて正義というカッチョ良い言葉が使える訳だ、クズ人間の俺なんかが使ってよい言葉ではない。正直これを持っている人に会ってみたい。
だがちょっと理論をこねくり回すと行動レベルでこれは問題が出る。ノンゼロサムゲームでウィンウィンの時しか行動できない、そんな場面ある?
純粋正義と実践正義に分けるしか今の俺には考えを進める技が無い、実践正義の方が今は重要だからちゃんと考えたいな。
でも正義とか考える前に現状変えろって感じでもある、まさに毒矢を早く抜けって感じか。ちょっと保留しとこう、仲間意識が無い俺はその前にしなくちゃならないこと多い。
正義は危険っていう考えは分かる。これは二つのパターンがある、正しいの中に本来含まれるべき考えの欠如によるものか実践正義を力のある者に利用されている時。
後者は分かりやすい、これに対しては何とも言えない。前者は寛容というワードに関わる、『正しいこと(真理)なんかない、もしくは知性では知り得ない』これは人間の知が導いたことの中で一番と言っていいほど重要なことだろう、これを知るまでは知性の役割だ。それをふまえ自分の正しさ以外の価値観を認める寛容が正義には内包されている。ここ面白いね、正しさを放棄した人が正義を持っているとは逆説的。
ちょっと横道行き過ぎたな、ごめん。機会が来たら実践正義について考えるから。正直今の世の中正しさについて考えると肩身が狭いんだけど、俺は大事なことだと思っている。余裕と正しさの関係を考えると時代的なものだ抗う気はないけどね。
まぁとにかく僕だけがいない街は他にも色々面白い面があるぞ!
これだけ言って終わると
あいつ逃げたな
と世間中に知れ渡ってしまうので終わりにいくつか簡単に述べておきます。
それは…そう追加コンテンツ(冗談)で