気付くことと気にすること
昨日は全然上手くいかなかったな~、睡眠も能力も体調も最悪だった。
でも最悪の時って特殊な思考回路が働いて、自分の持つ問題を解決できるアイディアが浮かぶことが多いからそんなに嫌ではないけどね。マイナスの要素は思考の成熟の種だと経験的に思う、これを数のマイナスプラス概念から立証してみたいね。いつかやろう。
それで昨日分かったのは、アドラー心理学に触れて自分をクズ人間だと自覚して感情の教育を考えていたことへのひとつの答え。
俺はうつってこともあるしもともとの個性として、ちょっと過敏症なところがあるんだけど、それで気にしなくてよいことを気にしてしまいがち。これが他人への憎しみの元になってしまうことがあって、寛容力や理屈ではなく感情で他者貢献したいと思うことの障害になっていた。これに対してずっと気付かないことを目指して考えてきたんだけど、それが違かったみたいだね。
気付いてしまうことは仕方ない、それより気付いたことをどう扱うかを考えた方が良い、そうふと思った。こうやって見ると当たり前やね。当然人によって気付く対象は違うからそういう意味では皆気にするかどうかが問題となってる。
それでじゃあどうするか、まず感情的に気付いたことの内優先順位的に気にして良いのかを考える…って思ったけどそれはそれで疲れるね、思考を挟まず気にすることが良い場合も多いし。
ちょっと難しいなー、気付くと気にするの関係性も単純では無さそうだし。
いかんいかん、今はあまり感情を教育することを考えるべきではない。うつを治すために今は感情の押さえつけを避けて感情を読み取れるようになる必要がある。感情教育は少し先延ばしだね、今はクズな自分を容認しよう。
結論出せなくてゴメン、いつかタイミングが来たら考えます。