名探偵コナン ベイカー街の亡霊
今日は昨日眠れなくて、寝たのが四時くらいだったから、昼過ぎまで寝てしまった m(-_-)m スマヌ
睡眠改善したら、この分も社会貢献しますんでお許しを…。
今日の特筆事項は、コナンの映画をみたことだな~。
前から狙ってたんだけど、いつも貸出し中で2カ月ぐらい待ってやっと借りれた (゚ー゚)(。_。)ウンウン
借りたのは有名なベイカー街の亡霊、これ一回見たことあるんだけど凄く印象に残ってて、メチャ期待しての今回。
いや~、良かったよ。映画分析苦手だし、それをするための知識の溜まりもないから、シーン事の分析はしないけど、映画の主題には感じたことがあるし、そっちの感じたことの理論化は得意(自分のことだしねヾ(--;)ぉぃぉぃ)だから、そっちを書こうっと。
とにかく出てくるコクーンっていう繭型の仮想現実ゲームマシンが面白そうで仕方ない。最近は相当ホットな話題(色々含めね)だけど、これを当時コナンでやったのは凄いよね、うん。
↓これがコクーン
仮想現実に関してはシュミレーション仮説みたいな考えは相当昔からあるし、哲学上でもこの世界が現実であることをいまだ証明出来ていないとか、色々夢があって楽しい。
有名どころだとマトリックスなんかが扱っている世界観なんかまさに、これだね。
それで面白いと思ったのが、この映画の仮想世界への結論の出し方、シンプル故に結構響く。
コナンは仮想現実世界を肯定も否定もしない。ただコクーンを支配した人工知能であるノアズ・アークは最後に自分のデータを消去する。その理由は 悪い大人が自分を利用しないようにするため 、この選択は色々考え方はあるだろうけど僕は良いと思う。
そしてノアズ・アークをつくった天才少年のヒロキ君は本当に賢い、ただの天才ではない。幅広い知性を持った主体的天才だ。
これらから僕は仮想現実への考えが変わった、今までは肯定的だった(あくまでその仮想現実世界において、人々が繋がっている必要があり)。世界=現実を脳が変換したもの=仮想現実と特に変わらない という考えが根底にあったからだろう。
映画を見て気づいたのは、仮想か現実かはどうでも良いということ。では大事なのはなにか?
ここは最近、僕がニンテンドースイッチで近日発売するARMSというゲームを相当気にしていることがリンクして、人生=個別に与えられたゲームソフト という考えが閃く。
皆同じハードで違うゲームをしている、この考えは結構説明してくれる。
その中でも個人の目的の多様性と平等、そしてルールの存在の説目の3つを矛盾が少なく両立させてくれるのは助かる。
ゲームにおいて重要なのはなにかを考えればよいが、実は大別は出来るがゲームごとに違うというのが事実だ。
エンディングを目指すゲーム、自分の憧れを表現するゲーム、多くの人と繋がり競ったり協力するゲームなどなど。
共通するのはゲームであることと、同じハードであること。これが何かは今は正直分からない、ちょっと考えさせて欲しいです ( ̄人 ̄)オ・ネ・ガ・イ
そしてもうひとつ、僕のやりたいことがひとつ分かった。
なんか映画に出てきたヒロキ君へ、異常な共感をしたんだよね。理解はしてあげられなかっただろうけど。
多分、天才(社会の闇を押し付けられている人も含めている)の孤独を減らすこと、これが僕がやりたいことで、唯一堂々と言えるものとなるだろう(他は酷いからね、いつか白状します(;^_^A アセアセ・・・)
とまぁ、この2つに気づいたわけですよ。映画ホント面白かったから、よかったら見てね(そして語り合おうぜ)。